誕生から70年。真に愛されるローカルブランドに
「日本で一番売れている弁当」といわれる崎陽軒の「シウマイ弁当」。 地元・横浜のソウルフードとしても愛されるこの商品の誕生は、今から70年前に遡る。不変のレシピで作られる主役のシウマイに、変遷を遂げてきた脇役のおかず、そして駅弁屋の矜持たるパッケージ。今も売り上げを伸ばすロングヒットの秘密とは何か。その極意を探る。
シウマイを横浜名物にした崎陽軒。原点回帰で栄養満点の弁当を販売
「シウマイとご飯、先に食べるのは?」「アンズはおかずかデザートか」「筍煮はいつ食べる?」。横浜界隈ではこんな会話が繰り広げられることがままある。会話の中心はもちろん崎陽軒の「シウマイ弁当」だ。
シウマイを横浜の名物にした崎陽軒の創業は1908年。定年を迎えた横浜駅長が駅構内で始めた売店が原点だ。関東大震災後の1928年、小田原のかまぼこなどに並ぶ横浜の名物を作るべく、後の初代社長が目をつけたのが、横浜南京街(現在の中華街)の食堂で突き出しとして出されていたシューマイだった。試行錯誤の末、豚肉に干帆立貝柱を混ぜ合わせることで“冷めてもおいしいシウマイ”を開発し、12個入りの折詰で販売。当初こそ売れ行きは芳しくなかったが、戦後、キャンペーンガールの走りである「シウマイ娘」の登場などでシウマイは同社の看板商品、そして横浜名物となっていく。
ご飯とセットになった「シウマイ弁当」が登場するのは、さらに年を経た1954年のことだ。広報・マーケティング部長の西村浩明さんによれば、まだ食料事情のよくない戦後のこの時期、一番に考えられたのは栄養価だったという。こうして弁当の三種の神器と言われた焼き魚、玉子焼き、かまぼこを揃えた幕の内スタイルの弁当が完成。駅で弁当などを売っていた同社の原点回帰ともいえる商品だった。
それから70年。メインのシウマイは4個から5個に増え、おかずもマイナーチェンジがなされてきたが、「こうした変更はお客様の声を反映したもの」と西村さん。一方、頑固に守り続けているのが、経木と呼ばれる薄い木の容器である。天然の木は吸湿性に優れるが、素材の性質上、フタの内側に飯粒がつきやすい。クレームを受けても変えずにきたのは「ご飯がおいしくなければ弁当じゃない」という駅弁屋としての矜持だ。さらに言えば、シウマイのレシピも発売開始当初のままだそうだ。
全国展開から方向転換。横浜市民のソウルフードに
こうして、着実にシウマイ弁当を世に広めてきた同社だが、過去にはシウマイの販路で揺れた時期もある。真空パックをいち早く開発した同社は一時期全国に販路を拡大した。しかし知名度が上がる半面、目の届かない地方の販売環境には憂慮すべき事態も起きる。野並直文現会長は、三代目社長に就任した際、「一村一品」運動で知られる平松守彦大分県知事(当時)の「真にローカルなものはインターナショナルになり得る」という言葉に触れてローカルブランドに戻すと決め、地方販売から時間をかけて撤退した。シウマイより消費期限の短い弁当はそもそも全国には展開していなかったが、この選択が駅弁としての価値を守ったのは確かだろう。
シウマイ弁当は横浜市民のソウルフードとしての地位も確立した。コロナ禍を経て、土産や駅弁としてだけでなく日常使いをする人も増えているとのこと。「『我々の食べ物』『我々の会社』と思ってくれる地元の人たちに支えられています」と西村さんは語る。横浜の工場で作られる弁当だけは、今も掛け紙に紐をかけるスタイルで包装していることも、地元を思う姿勢の表れだ。
「ロングセラーの場合、お客様に寄り添うことも必要ではないかと思っています。子供時代に慣れ親しんだ食べ物があると、他の美味しいものに目が移った時期があっても、またそこに戻る人が多い。シウマイのレシピを変えないのも、お客様の思い出まで変えたくないとの想いからです。野並会長がよく口にするのは『変えるべきものを変える勇気、変えてはならないものを変えない包容力』。ヒットの秘訣があるとすれば、その折り合いがうまくいったということではないでしょうか」
こう分析する西村さんは、近年の売上増の背景についても教えてくれた。2007年に1万7000個だった1日の売上個数はいまや2万7000個と、ここ15年で1.5倍以上。そこには、人気のおかずである筍煮を増量した弁当やメガシウマイ弁当などの販売、有名人がシウマイ弁当愛を語る書籍の企画など、人々がシウマイ弁当を語る機会を増やすための仕掛けがあった。
シウマイ弁当は今年4月で70歳。多彩な企画が目白押しの1年を経て、さらなる長寿弁当となりそうだ。
取材・文/佐藤淳子