岡田邦夫 氏
特定非営利活動法人健康経営研究会 理事長
従業員の健康増進を経営的な視点で考え、戦略的に実施する「健康経営」。働く人の健康に対する適切な投資は、従業員の満足度向上、人材の定着、組織の活性化、生産性や業績の向上と連鎖していき、企業全体を成長させる。「健康経営」のコンセプトの提唱者として知られる岡田邦夫氏にその要を聞いた。
誰もが長く、健やかに働ける職場環境を目指して
――今、健康経営が注目されていますが、これにはどのような背景がありますか?
ご存じのように、日本社会では少子高齢化が急速に進み、深刻化する労働力不足問題を前に、企業は労働者の定年を引き上げる必要に迫られています。
ところが、体調の問題で働けなくなる人は、60歳を超える頃から増えていくのです。女性の場合、40歳過ぎで子宮頸がんや乳がんなどのリスクが高まり、その後遺症などで仕事ができなくなる人も大勢います。
そうした中、2025年以降は、団塊の世代が続々と75歳以上の後期高齢者に加わるわけです。現在約1500万人の後期高齢者人口は、約2200万人にまで膨れ上がると、厚生労働省は試算しています。いわゆる「2025年問題」ですね。
超高齢化社会では、疾病者は確実に増え、働き手は確実に減っていきます。若い世代は2人で1人の高齢者を支えなくてはならず、社会保障が大きな重荷としてのしかかってくるでしょう。
そうなる前に、現役世代からヘルスケアに努めてもらい、年を重ねてもできるだけ長く、元気で働いていただく必要があります。企業としても、従業員の健康増進を支援することが、労働力確保や生産性向上、ひいては業績アップに直結してくるでしょう。
――従業員の健康は、どう経営に影響するのですか? 基本的な考え方を教えてください。
日本では、企業に定期健康診断の実施が義務づけられています。この義務を怠った場合は、従業員一人当たり50万円以下の罰金刑も定められています。
企業はまた、産業医と契約し、保健師を雇い、健康診断や再検査の費用も負担しています。数万人の従業員を抱える企業になると、それこそ何億、何十億というお金を、従業員の健康管理に投じているわけです。
しかしこれほど莫大な投資をしても、それに見合う結果が出ているとはいえません。健康診断を実施すれば従業員の健康状態が改善される、というわけではないのです。
私は40年にわたって産業医を務めましたが、健康診断の結果をもとにいくら注意をしても、タバコをやめない、お酒をやめない、そういう人がたくさんいました。
健康診断で問題が指摘されていたのに平気で残業を重ね、脳出血で倒れた人の裁判例もあります。それが労災と認定され、会社が多額の損害賠償を払うといった事例も、枚挙にいとまがありません。
会社も、健康診断さえ実施すれば十分と考えがちです。だから、ややもすれば従業員の身体や心の健康状態に配慮せず、業務を命じてしまうことになります。その結果、最悪の事態を招いたりすれば、それこそ裁判沙汰になりかねません。企業名も社長の名前や顔も社会にさらされ、企業価値は間違いなく地に落ちます。若い労働力を確保したいといっても、そのような対応が常態化している会社に入社したいと思う若者が、果たしてどれほどいるでしょうか。
健康経営とは、『従業員の心身の健康維持に経営的な視点から取り組み、会社の利益に結びつける』考え方です。働く人の健康増進を支援することで、長く元気に働いてもらい、仕事の効率性や企業価値を向上させていくことが、健康経営の目的なのです。
いくら投資しても働く人たちの健康状態が向上せず、投資が業績に還元されないとしたら、それは明らかに経営的な問題です。そのことを経営者はよく認識しなくてはなりません。
――人々の健康に関する意識も、最近はずいぶん高くなってきたようですが。
職場での健康や安全について、学生の意識は確実に高くなっています。身体を壊すほど仕事で追い込まれたり、職場の人間関係でメンタルヘルスが不調に陥るといったリスクはないか、彼らは敏感に見極めながら就職活動をしていますよ。
ただ、国民のヘルスリテラシーとなると、日本はけっして高くありません。ヘルスリテラシーというのは、自分の健康問題を自分で解決する力のことですが、先進国の中ではオランダがトップで日本は最下位です(「国別ヘルスリテラシーの比較」聖路加国際大学看護情報学 中山和弘教授調べ)。
私たち日本人は、小学生の頃から健康診断を受けていますから、社会人になるずっと前から、自分の健康状態を熟知しているはずです。就職すれば毎年無料の健康診断があり、特定健診(*1)まで受けられます。
その結果が、先進国中最下位というヘルスリテラシーの低さです。もし健康診断で3年間、同じ問題を指摘されても改善しないのであれば、その人はヘルスリテラシーに問題があると考えざるを得ません。
アメリカの場合、病気で仕事ができなくなると、人種差別や性差別に抵触しない限り、即日解雇もありえます。だからアメリカ人は、健康こそ自分の資本だと真剣に考え、高い会費を払ってでもジムに通い、せっせとジョギングで汗を流し、食事にも睡眠時間にも気をつけて、懸命に健康維持に取り組んでいるわけです。私たちももっと危機感を持って、健康について考えたいところですね。
*1 特定健診:メタボリックシンドロームのリスクをチェックする。通称「メタボ健診」。40~74歳を対象とする。
健康経営の成否を握る、経営者のリーダーシップ
――うちのホテルでも健康経営の取り組みを始めようということになったとき、どんなことから始めればよいでしょうか。
まずは法令順守です。みなさんのホテルでは、従業員全員、もれなく定期健康診断を受けていますか? 健診で異常が見つかった人には、保健指導をしていますか? メンタルヘルスに関しても、十分な配慮とケアを行っていますか? 働くということは健康が前提だと、全社に周知していますか? まずはそこから、健康経営の取り組みを始めましょう。
中小企業で健康経営がうまくいっている会社は、経営者が若い社員の言葉にしっかり耳を傾けています。管理職と若い社員の意見を両方聞き、社長が最終決定することで、物事が速やかに進んでいくのです。
例えば、会社がフィットネスクラブと契約している、社内にジムがあるといったことを、若い人たちはとても歓迎します。年配の社員は、そんなものは会社に必要ないと言うかもしれませんが、いつでも身近ですぐ運動できる環境づくりは、健康経営の考え方には適っています。そのくらい柔軟な発想ができる会社は、若い人材を確保しやすいでしょう。
――健康経営においても、経営者の責任は重大ですね。
健康経営を成功させるうえで、経営者の判断やコミットメントは、まさに1丁目1番地です。経営者が本気で健康経営に乗り出せば、人々の健康は実際に確保され、労働生産性も維持できます。
先ほど、健康診断をやってもなかなか生活習慣が改まらない、産業医がアドバイスしても馬耳東風という話をしましたが、働く人は会社のトップのひと言で驚くほど変わります。
医師が口を酸っぱくして禁煙をすすめてもどこ吹く風だった人が、「これから5年以内に社内は禁煙!」と社長が宣言すると、「じゃあ、タバコやめるか」となるわけです。
コンビニエンスストア大手のローソン様では2013年から、健康診断を受けない従業員の賞与を本人は15%、その上司は10%カットすると決めました。するとたちまち健康診断の受診率が改善したそうです。
最近は、産業医が執行役員や取締役に加わる例も増えてきています。医師は中立の立場ですから、厳密には産業医の職を辞したうえで、役員になっているのですが。
これは健康に関する専門知識を持った人を役員レベルに入れて、本気で健康経営に取り組もうという、トップの意志を示しているのです。経営者は、医療職ではありません。しかし、立派な健康管理者です。一人でも多くの経営者に、その自覚を持っていただければと思います。
──経営者だけでなく、現場に近い管理職にも意識改革が求められそうです。
そのとおりです。元気のない部下を連れ出して気合を入れるのが、上司の役割だと勘違いしている人や、一緒に飲んだり騒いだりすれば、憂さが晴れて元気になるだろうと思っている管理職は、この時代になっても少なくありませんからね。
部下にしてみれば、体調が悪いときは休ませてほしい。仕事で悩んでいるときは、ちゃんと相談に乗ってほしい。でもそれを言うと、自分に対する上司の評価が下がってしまいそうで言えない。こうして事態が悪化していくことがよくあります。
管理職に知識や自覚がないと、パワーハラスメントを含めて、無意識に法令違反を犯してしまう場合もありますから、研修などを通して管理職の教育にも、力をいれていただきたいですね。
――健康経営を実践することで、どのような効果が期待できますか。
経産省の調査によると、健康経営に取り組んでよかったこととして、「実際に従業員の健康状態が向上した」「元気な社員が増えたせいか、社内の雰囲気まで明るくなった」といったことがまずあります。
体力テストをやったら、管理職より若手のほうが優秀で、いつもの上下関係が逆転し、かえって世代間のコミュニケーションが活発になった、といった話も聞きます。そういう会社なら、若い人は働いてみたいと思うでしょう。すでに働いている人も、毎朝、会社に行くのが、もっと楽しくなるのではないでしょうか。
社内の雰囲気がよくなると、仕事へのエンゲージメント(愛着や思い入れ)が高まり、困難を乗り越えるレジリエンス力(回復力)が強化されます。みんなで頑張ろうというレジリエンス力があるから、仕事量が増えてもハイパフォーマンスが達成できて、企業は成長するのです。
「調査票」を活用し、「健康経営優良法人」認定に挑戦しよう
――国では健康経営の認定制度を設けています。いろいろな認定要件があるようですが、審査で評価されるポイントは何でしょうか。
健康経営の取組状況などを分析し、「健康経営優良法人」の認定に必要な基礎情報を得るための、「健康経営度調査」というものがあります。その「調査票(健康経営度調査票)」のサンプルをダウンロードしてみてください(*2)。どういうポイントが重要なのかがよくわかります。
*2 健康経営度調査票サンプル
https://kenko-keiei.jp/application/sample/
調査票の目次を見てみましょう(下図参照)。これは大規模法人の場合ですが、赤い星印がついている項目が認定要件です。従業員が健康診断を100%受診しているか、ストレスチェックをちゃんとやっているか、といった項目が並んでいますので、まずは星印の項目について、自社の達成度を確認するとよいでしょう。
「経営理念・方針」や「組織体制」にある項目は、経営陣のコミットメントや全社体制を示すものとして重要です。みなさんの会社では、全社方針を明文化して周知を図っていますか? 取締役会や経営会議では、どのくらいの頻度で健康経営を議論しているでしょうか?
認定事務局(*3)に調査票を提出すると、フィードバックを通じて、何が欠けているかがわかります。そこをトップダウンで改善することで、高評価を得ることができると思います。同時に、働く人たちも「会社が変わった」と実感できるでしょう。
*3 健康経営優良法人認定事務局「ACTION!健康経営」
https://www.kenko-keiei.jp/
――ホテル業界でも人手不足は深刻で、職場としての環境整備や魅力アップを図ろうと努めています。その観点から、会員ホテルへのメッセージをいただけますか?
お客様サービスを行う企業では、いかに従業員を温かく大切に育てるかが、ますます重要になるでしょう。元気な社員が働くホテルは、ホテル自体も元気で気持ちがいい。最大の顧客サービスで顧客満足度はアップし、売り上げが伸び、それがまたスタッフの働きがいや、仕事や職場への愛着として戻ってきます。従業員を育てるのは管理職であり、経営者です。
若い労働力を確保するにも、今いる人たちに長く働き続けてもらうためにも、こうしたサイクルをつくることは、大きなアドバンテージです。
健康は、身体だけのことではありません。メンタル面も含みます。多様なお客様が訪れるホテルでは、カスタマーハラスメントも避けて通れませんが、従業員にはやはりストレスになります。
ですので、無理難題を求めるお客様や、暴言を発するお客様への対応では、現場のスタッフを「一人」にしないでください。忙しくても上司がその場へ行き、スタッフの後に立って、何かあればすぐサポートできる体制を取ってください。「上司を出せ」と言われたら、「私が責任者です」とすかさず前に出て、スタッフを守らなければなりません。チームワークが必要なのです。
いつでもそういう対応ができるよう、経営者は管理職に「部下を守れ」とはっきり伝えておくべきです。ピンチに際して上司が毅然とした態度を取れば、部下は自分が守られていると感じて、安心して働くことができます。これもまた健康経営の取り組みであり、それができるホテルは、まさに魅力ある職場だといえるでしょう。
取材・文/田中洋子
(2024 7/8/9 Vol. 748)
岡田邦夫(おかだ・くにお)●特定非営利活動法人健康経営研究会理事長。女子栄養大学院客員教授。1977年大阪市立大学(現 大阪公立大学)医学部卒業、1982年同大学院医学研究科修了(医学博士)。大阪ガス株式会社本社産業医、同健康開発センター健康管理医長、同統括産業医等を経て、2010年大阪市立大学医学部臨床教授、2014年プール学院大学教育学部教授、2018年大阪成蹊大学教育学部教授などを歴任。厚生労働省、文部科学省等の各種検討会委員など役職多数。著書に『「健康経営」推進ガイドブック』(経団連出版)、『これからの人と企業を創る健康経営』(健康経営研究会・共著)などがある。